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一般財団法人 ブランド・マネージャー認定協会 > スペシャルインタビュー >岩永嘉弘氏

ネーミングは「ターゲットへの姿勢」が最も重要だ 「土壌を作りたい」思いで協会を設立

一般社団法人日本ネーミング協会 会長 岩永嘉弘氏

【プロフィール】

一般社団法人日本ネーミング協会
会長 岩永嘉弘氏

早稲田大学第一政治経済学部新聞学科卒業後、光文社に入社、編集記者として4年半にわたって活動。その後、明治製菓に転職し宣伝部で4年間過ごしたのち、1981年にコピーライター集団の株式会社ロックスカンパニー設立。「ネーミング」の第一人者で、代表的なネーミングに越中ふんどし「JAPANTS」、日立洗濯機「からまん棒」、「新宿MY CITY」、HONDA「FIT」、光文社「STORY」、「東急Bunkamura」、「日清oillio」ほか多数。2018年11月に一般社団法人日本ネーミング協会設立。主な著書に『最強のネーミング』(日本実業出版社)『ネーミング全史』(日本経済新聞出版社)『全てはネーミング』(光文社)『ネーミングの成功法則』(PHP)などがある。ニューヨークADC賞・TCC特別賞・ACC賞・ADC賞など、受賞多数。


聞き手:一般財団法人ブランド・マネージャー認定協会 代表理事 岩本




“ネーミング”の普及・啓蒙活動を行う日本ネーミング協会。オンラインセミナーの実施、会員向けにネーミングに関わることの情報発信など活動を精力的に展開し、ネーミングの質と価値の向上に貢献しています。また2020年度は「日本ネーミング大賞」を開催し、より一層のネーミングの発展を図ります。日本におけるネーミングの第一人者であり、同協会を創設した岩永嘉弘会長に、これまでの歩みや協会設立の背景、コロナ禍におけるネーミングのあり方や今後の展望などについてお話を伺いました。




テレビ番組出演が“ネーミング”への第一歩に

聞き手

まずは、これまでのご経歴をお伺いします。2018年に日本ネーミング協会を設立されましたが、それまではどのような道のりを歩んでこられたのでしょうか。




岩永嘉弘会長(以下、岩永)

もともとは新聞記者になりたかったので早稲田大学の政治経済学部で新聞学科を専攻していたんです。ですが、卒業の前年に60年安保闘争があり、新聞社が安保反対運動は一切支持しない、という「10社声明」というのを出しました。そのため、就職活動で新聞社を受験してもどこも受からない。ただ光文社はそうした学生を拾ってくれたんです。当時いくつかの雑誌を立ち上げていました。それで『女性自身』編集部に入ることになったんです。『女性自身』という雑誌名は、当時の雑誌名としては画期的で、そこで初めて“ネーミング”というものを意識しました。


聞き手

キャリアのスタートは雑誌記者だったんですね。そこでネーミングの面白さを知った、と。


岩永

はい。そこで4年ほど記者をしていました。そのころ、光文社は初めて外部からアルバイトのデザイナーを使ったんです。明治製菓の宣伝部でデザイナーをしていた岩崎堅司さんという方で、僕が記事を書き、岩崎さんがレイアウトをする、という形になりました。そんな中、岩崎さんが日本宣伝美術会のコンクールに絵本を作って応募したんです。僕が記事を書き、岩崎さんがデザインした作品で、グランプリを獲り、岩崎さんは一気に有名になりました。で、岩崎さんから「広告の世界に来ないか」と誘われた。それで明治製菓に入ることになったんです。


聞き手

明治製菓ではどのような経験をされたのでしょう。


岩永

4年ほどコピーライターをしていました。明治製菓では当時、コピーライターの土屋耕一さんやグラフィックデザイナーの亀倉雄策さん、田中一光さんら、第一線のすごいクリエイターたちがたくさん仕事をしていたんです。当時の明治製菓の広告は、デザインを田中一光さん、コピーは土屋耕一さんが仕切っていました。土屋さんは宣伝部のコピーの顧問のような感じで、僕は土屋さんの下についていたわけです。浅葉克己さんと知り合ったのもこのころですね。


聞き手

そうそうたるビッグネームの方々が明治製菓で仕事をされていたのですね。


岩永

そうですね。当時は、世の中が広告の面白さに気づき始めていたころで、日本テレビが広告作りのパロディの番組を制作することになったんです。テレビの中で架空の宣伝部を設定して、いろんな商品をブランディングして売り出していく……という、今でいうバラエティー番組のようなもの。社長役は大橋巨泉さんで、クリエイティブディレクターは土屋耕一さん、デザイナーは浅葉克己さん、コピーライターは岩永嘉弘。このチームがプレゼンテーションするわけです。10回ほどいろいろなテーマを設けて出演しました。


聞き手

たとえば、どのようなテーマでプレゼンされたのでしょうか?


岩永

第1回目は「ふんどし」でした。越中ふんどしが廃れたので、再び蘇らせるキャンペーンをやりたいと巨泉さんが言い出すわけです。そこで、土屋さんが「名前が勝負だ」と言い出したんです。「ふんどし」という名前が良くないので、これを衝撃的な名前に変えて全世界に普及させよう、と。いわゆるグローバルマーケティングですね。で、番組内で土屋さんが「岩永君、ネーミングを考えてきたまえ」と言うんです。実は、当時はコピーという言葉がようやく定着したころで、まだ「ネーミング」という言葉はなかったんですよ。だから土屋さんがそのとき初めて「ネーミング」という言葉を使ったんです。


聞き手

日本における「ネーミング」の第一歩だったわけですね。


岩永

そのときいろんな案を出しました。グローバルキャンペーンということで「ホールドアップ」「サンセット」「プチパン」「ゴールドキーパー」……。最終的に、ジャパンとパンツで「JAPANTS(ジャパンツ)」に決まり、ふんどし型の広告を出そう、となったんです。まだネーミングという意識がない時代でしたから、視聴者も面白がって、「ネーミングって大事なものなんだ」と少し火が着いたんだと思います。なにしろ、その番組の翌日にKKベストセラーズから「ネーミングの本を書かないか」という連絡をもらって『意表をつくネーミング』という本を書いたんですから。この本は山手線のキヨスクに並ぶほど売れました。
ただ、出版社の人は僕がネーミングを作る専門家、と勘違いしていて。でも僕はネーミング作ったことなんかないんですよ、なにしろ「JAPANTS」が初めてのネーミングですから(笑)。この『意表をつくネーミング』はネーミングについて評論した本で、たとえば喫茶店やアパート、バーはどういう名前が多いのか、それはなぜなのか……という分析をしたんです。だから一般の人が読んで面白がったんですね。



左から、岩永氏、浅葉克巳氏、伊坂芳太良氏、土屋耕一氏


聞き手

テレビ番組をきっかけに、ネーミングに本格的に取り組むことになったんですね。


岩永

そうですね、番組後にネーミングの本の話が来て、本を読んだ人からもネーミングの作家だと勘違いされて……(笑)。それがネーミングを仕事とするようになったきっかけですね。


独立し「新宿MY CITY」「からまん棒」などをネーミング

聞き手

明治製菓でコピーライターをされた後は、どのような道のりを歩まれたのでしょう。


岩永

本を出したころまで明治製菓にいて、その後すぐにコピーライターとして独立しました。当時、フリーのコピーライターはあまりおらず、先駆けでしたね。仕事の中心は圧倒的に広告。でも当時仕事は、商品がまだ形になっていないところからスタートしていました。つまり、商品企画はあるけど、まだモノがなく、コンセプトがもやもやしている。その時点から広告を一緒に考えるわけです。まさに今のブランディングですよね。


聞き手

具体的には、どのような案件に関わられていたのでしょうか?


※掲載の記事は2020年9月時点の内容です。
掲載内容が変更となっている場合がございますので、ご了承ください。

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