本書を選択した理由は?
石井淳蔵先生が四半世紀ぶりに執筆された「ブランド」に関する著書
今回紹介する本は、石井淳蔵氏著『進化するブランド―オートポイエーシスと中動態の世界』(碩学舎)です。石井先生は長らく神戸大学で教鞭を執られた後、流通科学大学の学長も務められた方で、経営学やマーケティングの世界では非常に有名な先生です。
会計や人的資源といった様々な分野を擁する経営学の中で、マーケティングの重要性を広く知らしめたことは石井先生の大きな功績です。研究初期は数量的な検証を行う実証的アプローチという手法を取られていましたが、その後、定性的に物事を見る解釈主義・ポストモダンアプローチの立場から研究を行ってこられました。さらにその後は石井先生独自のアプローチによって、様々な問題に対してチャレンジをされてきました。
石井先生は、1999年に『ブランド 価値の創造』(岩波書店)という本を出版されています。岩波新書からブランド関連の本が出ること自体も驚きましたが、高名な石井先生が「ブランド」ということに対して深い関心をお持ちになり、本までお書きになったことは非常にインパクトのある出来事でした。
先生はご関心が多岐にわたるので、それから四半世紀が経過し、ブランドにはもう関心をお寄せになっていないのではと思っていたところで、新たに『進化するブランド』という本をお書きになったことには非常に驚きがありました。それが今回本書を取り上げた大きな理由の1つでもあります。
本書の概要は?
日本流ブランディングとは
本書では、「日本流のブランディングがあるとすれば、それはいったいどういうものか」という問いかけが提起されています。日本的ブランド、日本的経営というテーマは、実は今から30年ほど前に取り沙汰されていた問題です。私もかつて日本的ブランドに関して執筆したことがありますが、なぜ日本的経営は優秀なのかということが世界の経済学界で議論されていたのです。しかし、1990年代のバブル崩壊後は日本的経営への関心はだんだんと薄れることとなり、今は逆に日本的経営といえば「日本人はこんな経営をしているからダメなんだ」ということばかりが言われるようになってしまいました。
そのような状況の中でも、本書で石井先生は「日本流のブランディング・ブランド戦略にもいいところはある」と主張されているのです。
「進化型ブランド」と「反進化型ブランド」
石井先生は、ブランドには「進化型ブランド」と「反進化型ブランド」の2種類があると定義しています(※図1)。
「反進化型ブランド」とは、進化しないブランドです。なぜ進化しないかというと、管理されているからです。ブランド管理者によって「このブランドはこういう理念を持ち、こういうターゲットに対して、こういう政策を行う」ということがしっかりと決まっているため、そこから外れることは許されないというのが反進化型ブランドです。いわば、進化を人為的に止められてしまっているのです。主にアメリカや欧州で発展した欧米型のブランドが、反進化型ブランドにあたります。
出典:進化するブランドP8
対して「進化型ブランド」というものが存在し、これが日本型のブランドだということを言っておられます。進化型ブランドとは「ブランドとしての同一性を保ちながらも変容し続ける」。つまり、アイデンティティはあるものの、その中身がどんどん変わっていくものだというわけです。
もちろん、反進化型ブランドが良くないと言っていらっしゃるわけではありません。欧米型の管理されたブランドに対して、進化型ブランドというものが存在するということを石井先生は主張をされているわけです。
進化型ブランドの例―阪急と無印
進化型ブランドの例は本の中でもいくつか挙げられていますが、ここで代表的なものを2つ紹介すると、1つは「阪急」です(※図2)。
現在は阪急阪神ホールディングスという事業体ですが、もともとは小林一三氏が創業した阪急電鉄が母体の会社です。阪急電鉄は鉄道を走らせるだけでなく、たとえば宝塚音楽歌劇学校を創り、それに関連して劇場を創るなど、様々なところでエンターテインメント事業を始めます。さらには百貨店を開業し、ホテル事業なども行うようになりました。
小林一三氏には、「庶民に向けて、洋風の質の高い生活を低価格で実現させたい」という思いがありました。これがいわば阪急の「らしさ」、阪急のビジョンということなのです。こういったビジョンがあるからこそ、阪急は電鉄だけではなく、エンターテインメントやショッピングなど、生活全般を含めて事業を広く展開してきました。これは1つの典型的な進化型ブランドだといえます。
出典:進化するブランドP110
もう1つの例が「無印良品」です。もともとはセゾングループのプライベートブランドでしたが、青山学院大学前に出店した直営1号店が大きな話題となり、セゾングループの社内事情に左右されない経営を目指して1980年代に独立を果たしました。
無印良品も、独自の理念やビジョンを持っています。たとえば「ミニマリズム」「シンプルライフ」「自然思考」「エコ思考」。それから「アノニマス」という考え方があります。アノニマスとは、無名制ということです。無印良品という名前のとおり、名前がないブランドとして、マークを付けたりせず、自己主張をしないブランドエッセンスを持っていることも無印らしさの1つです。
無印良品は、衣料品・アパレルのみならず、食品や住宅、最近ではホテルも展開しています。このように無印良品は「無印らしさ」をベースとして多様な商品群や考え方が折り重なり、「ブランドらしさの厚み」がどんどん増してきたブランドです。こういった「らしさの厚み」が加わっていくことによって、内部では「相互調整」といわれる変化が起こります。それによって、家電品や生活用品など、生活全体をカバーするブランドに変化し続けていることが無印良品の大きな特徴です(※図3)。
出典:進化するブランドP165
日本流ブランディング発展のカギは「中動態」
第2部では、ここまでの主張に関して、様々な理論を援用して語られています。たとえば、青木昌彦先生が唱えた「比較制度分析」。それから、研究者・サラスバシー教授による「エフェクチュエーション」という考え方。エフェクチュエーションとは、ベンチャーやスタートアップの起業家の人たちの思考形態を理論化したものです。また、野中郁次郎先生の「知識創造理論」。組織とは知識・ナレッジを創造していくものなのだという考え方で、これは世界的に非常に有名な理論です。
もう1つ、タイトルにも含まれている「中動態」というものがあります。中動態とは言語学の考え方です。
言語には、英語のように主語を重んじて表現するような言語があります。「I want this」といったように、「I」「We」「You」という主語が非常に明確にある言語です。それに対して中動態の言語とは、主語が曖昧な言語のことをいいます。本の内容を引用すると、たとえば、日本人は何かを「見る」ということに対して「見える」と言います。「富士山が見える」と言うとき、「私が見ている」とか「あなたが見ている」とは言わずに、「富士山が見える」という言い方をします。これが中動態の言語の特徴です(※図4)。
主語があまり明確でなく、客体もあまりはっきりとはしていない、こういった中動態の日本語の言語のあり方が進化型ブランドの発展に大きく関係があるのだと石井先生はおっしゃっています。進化型ブランドは、あらかじめ予定していたようなあり方を続けるのではなく、中動態のコミュニケーションの中で思いもかけなかった進化を遂げていくということなのです。
偶有性によって進化するブランド
私は、進化型ブランドという考え方自体を非常に新鮮なものだと受け止めています。確かに、特に日本においてブランドが変化していく現象に対して、何とも合理的な説明がしようがないことを実感していましたが、本書では、そのように思いもよらない進化を遂げることを「偶有性」という言葉を使って解説されています。
偶有性とは、「必然でもなく不可能でもない様相」のことで、たとえば会議の中でたまたま出たアイデアがその後の意思決定に影響を与え、それまで考えられなかったような方向にブランドが進化していくということが起こるわけです。それが、進化型ブランドの特徴的な進化のメカニズムなのです(※図5)。
出典:進化するブランドP351
読者へのアドバイス
ベースとなるブランド・ビジョンを持っておくこと
実際に石井先生の考え方を実務に反映させようと思うと難しいところがあります。欧米型・反進化型のブランドであれば、マネジメントや手順、考え方がきっちりと決められているわけですが、進化型のブランドではマネジメントの考え方を組み立てにくいということがあると思います。
ではどうすればよいかというと、「このブランドは基本的にはこういうブランドだ」「このためにあるブランドだ」というブランド・ビジョンを持っておくことです。阪急の例では「庶民に向けて、洋風の質の高い生活を低価格で実現させたい」という理念がありましたが、進化型ブランドの場合にはそういった理念が貫徹されていることが非常に重要なポイントなのです。細かい手順は決まっていなくても、大きな枠組みでのプリンシプルを立てておくことは、いずれにしても重要なことではないかなと思います。
そして、プリンシプルを立てたとしても、それを守り続けることはとても難しい話です。たとえば無印良品では、外部のデザイナーなど、無印良品の社員ではない人たちによる第三者機関を設け、新商品について無印として出していいのか判断してもらうという取り組みを行っています。無印良品社員が「売れそうなものを考えたのだから問題ない」と思っていても、もしかしたらそれは無印の理念に反したものであるかもしれないからです。
このように、第三者の目を通して「これはプリンシプルや理念、ビジョンに合っているのだろうか?」ということを判断してもらうのも1つのアプローチですし、その他の方法でも、この問題に対応するための仕組みを作っておくことはいずれにせよ大切でしょう。