本書を選択した理由は?
ブランド誕生の物語が綿密に描かれた貴重な実録書
今回紹介する本は、ナンシー・ケーン氏『ザ・ブランド 世紀を越えた起業家たちのブランド戦略』(翔泳社)です。ハーバード・ビジネス・スクールでビジネスの歴史を教える経済学者の著書で、翻訳版が出版されたのは2001年ですので、もしかしたら現在は手に入りにくい状態にあるかもしれません。
私は以前からこの本が好きなのですが、その理由の1つは、これが歴史の本であるということです。ブランドの歴史についての文献は非常に少なく、アーカー先生やケラー先生の著書の中にも、歴史の話は本当に少ししか出てこないのです。本書では、起業家たちの個人の歴史を辿りながら、どのようにブランドを起こしたかということが非常に綿密に書かれています。
もともとの英語版タイトルは『Brand New』、つまり「新しいもの」という意味です。確かにブランドというものは、ほぼ必ず新しい装いを持って世に出てくるものです。副題に「どのようにして起業家たちが消費者の信頼を勝ち得てきたか、ウェッジウッドからDELLまで」とあるように、18世紀から20世紀に至る起業の歴史が記述されています。
新しいブランドの誕生には、起業家の天才的なひらめきや、個人の努力といった要素があります。同時に、その時代、社会、経済の成り行きといった要素、さらにモノであれば生産工程の革新、技術・テクノロジーの進展といった要素も関わってきます。このように、あらゆる要素が絡み合ってブランドが生まれてきた事例が様々に紹介されており、それがこの本の非常におもしろいところであると感じています。
今回はこの本で紹介されている事例のうち、3人の起業家を取り上げて解説したいと思います。(※図1)
本書の概要は?
マーケティングマインドで世界市場を切り拓いたウェッジウッド
最初に紹介するのは、第2章で取り上げられているジョサイア・ウェッジウッドという人物です。皆さまもよくご存じの通り、ウェッジウッドは陶器のブランドです。自分用にはもちろん、ギフト用に求める方もいらっしゃると思いますが、価格帯でいえば中の上ぐらいのやや高級品であるかと思います。
ウェッジウッドは1700年代、産業革命の時代に生まれたブランドです。ウェッジウッドの代表的な製品として「クリームウェア」という白地に繊細な絵が描かれている陶器がありますが、ジョサイア・ウェッジウッド氏は陶器の町・スタッフォードシャーで製陶業を営む家庭に生まれ、幼い頃からこのクリームウェアの製造に触れてきました。そして修行を経て、28歳で独立し、自身の工房を持つようになります。
ブランドができる基礎的な条件として、当然品質が良いということがあります。ウェッジウッドの商品は非常に見栄えも良いということで話題になりました。特に青地に装飾を施した壺は、非常に熱狂的な人気を集めました。彼は、均一な商品をうまく作る生産技術の向上にも尽力しました。陶器は焼物のため、どうしても色のばらつきや不良品が出てしまいます。そういうものができるだけ出ないように、積極的に新しい技術を取り入れ、均一な商品を大量生産できるようにしたことは、ジョサイア・ウェッジウッド氏の大きな製造上の功績です。
このように優れた製品を作り上げたことももちろん成功の大きな要因ですが、注目すべきは、まだマーケティングという言葉もない時代に、彼が常に高いマーケティングマインドを持って事業拡大に挑戦していたということです。
彼の生きた18世紀のイギリスは、産業革命の時代にありました。かつてのイギリスには貴族や王族といった上流階級と、一般庶民しかいませんでしたが、産業革命以降、それまで農民だった人たちが工場で働いて収入を得るようになると、中産階級と呼ばれるような人たちが形成されてくるわけです。ウェッジウッド氏は、この中産階級の人たちの消費マインドを非常によくつかんでマーケティング戦略を展開しました。
今まで貧しかった人が中産階級になると、どうなるでしょうか。人間は常に社会的なアイデンティティを持ちたがる生き物ですので、「自分にふさわしい持ち物とはなんだろう?」ということを考え始めるわけです。本の中で「社会的な模倣」と書かれているのですが、中産階級になった人たちは、上流階級の人たちがやっていることを真似しようとするのです。そこでウェッジウッド氏は「ウェッジウッドは王族によって使われていた」「ロシアのエカテリーナ女王に献上した」といった実績を世間に宣伝し、「貴族が使っているものを自分も使いたい」という彼らの欲望を喚起させました。
同時に、この頃の中産階級の人たちは、植民地であったインドから入ってきた紅茶を飲むようになったり、チョコレートやコーヒーといった贅沢品を嗜んだりしていました。その際には、当然ながらティーポットやカップ、ソーサーなどの器が必要になるわけです。そこでウェッジウッド氏はロンドンにショールームを開設し、実際にお茶を飲むシーンでの陶器の使い方を消費者に教えていくことで、数珠つなぎに消費を広げていきました。これもウェッジウッド氏が時代に先駆けて行ったマーケティングアクションの1つです。
ウェッジウッド氏は、フランスやドイツなどの海外市場の開拓にも力を入れました。ドイツの上流階級1,000人に対して勝手に自社の陶器を送りつけ、よければ購入してほしい、気に入らなければ送料を負担するから送り返してほしいといったような、一種の「押しつけ販売」ともいえる手法をいち早く行いました。結果的にそういった戦略は成功し、海外においてもブランドを築き上げて、一躍グローバルブランドとして名を挙げることになったのです。(※図2)
このような時代に先駆けたマーケティングアクションは、ウェッジウッド氏1人ではなく、トマス・ベントリーというパートナーと一緒に行っていたということが書かれています。起業家がブランドを成長させるためにはビジネスパートナーが重要だということは、この本の各章において示唆されています。
戦後の豊かな消費文化の中で成熟したエスティローダー
第5章では、エスティローダーの事例が紹介されています。エスティローダーはアメリカの化粧品会社で、日本でもいわゆる「デパコス」としてよく知られているブランドです。同じ会社の中で、アラミス、クリニーク、プリスクリプティブといったように様々なブランド展開をしている点でも非常におもしろい会社です。
この会社を作ったのは、エスティ・ローダーという方です。彼女はハンガリーから移住したユダヤ人の両親のもと、ニューヨーク・クイーンズの貧しい家庭に育ちました。エスティローダーの競合にエリザベス・アーデンやヘレナ・ルビンスタインといった会社がありますが、この3社の共通点は、創業者がみんな移民の家庭で生まれ育っているということです。貧しかった子どもの頃には、化粧品の世界は非常にきらびやかに見えたのでしょう。本の中には、エスティ・ローダー氏が幼い頃に母親と一緒にサラトガ・スプリングズという保養地を訪れたエピソードが書かれています。そこでとてもいい香りのフェイスクリームなどの化粧品に触れたことが、彼女の原体験としてあったようです。
1929年に大恐慌が訪れますが、それ以前の1920年代、アメリカはとても好景気の時代でした。まだ女性が化粧をすることは一般的ではありませんでしたが、ニューヨークを中心として、エリザベス・アーデンやヘレナ・ルビンスタインが自社のサロンで化粧の仕方を人々に教えていくことによって、女性がメイクアップをする習慣が起こり始めていました。
エスティ・ローダー氏は競合から少し遅れた1933年頃から美容ビジネスを始めました。最初は美容院に卸す化粧品、今でいうサロン専売化粧品を製造・販売していました。彼女は営業活動の中、美容院に来るお客さんとの話を通して、女性の美に関する考え方を徐々に深めていきました。
どういうマーケティングを行えばより自身のブランドが受け入れられるのかと彼女が試行錯誤している最中、1939年に世界は第二次世界大戦に突入します。この時期には男性が戦場に赴き、代わりに女性が工場で働くということが起こりました。その時代に化粧品がなくなったかといえば、そうではなかったのです。むしろ働く女性の気持ちを高めるために化粧品が有効なのではないかということで、逆に化粧品業界は売上を伸ばしていきました。日本では「贅沢は敵だ」というキャッチフレーズがあったように、化粧品など到底受け入れられない雰囲気である一方、アメリカでは戦争中でも化粧品の広告が出され、市場が発展を遂げたというのは非常に興味深い点であると思います。
1945年に第二次世界大戦が終わると、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」といった豊かな消費文化が生まれました。エスティ・ローダー氏の美容院でのビジネスはさらに人気を集めていましたが、この流れに乗り、もっと販路を増やして大きなブランドを作りたいと考えるようになりました。そこで、自身の名前を冠したブランド「エスティローダー」を立ち上げ、リップスティックやクレンジングオイルといった、今日われわれが使っているようなアイテムを取り揃え、より大きなマーケットへと打って出たのです。
同じ時期にはヘレナ・ルビンスタインやエリザベス・アーデン、マックスファクター、コティといった美容品や化粧品の会社も同様に売上を伸ばし、化粧品メーカーの競争は大変激しいものになっていました。激しい競争の中で生き残るために、各社はそれぞれの戦略で化粧品の販売を行いました。たとえば日本の市場では、資生堂は、街の一般の化粧品店を「資生堂チェーン」と名付け、店員が化粧の方法を人々に教えながら商品の販売につなげるやり方をしてきました。また、エイボンというブランドは、ヤクルトレディのように「エイボンレディ」が1軒1軒の家庭へ訪問して販売するスタイルを取ってきました。
エスティローダー氏は、デパートに販路を絞るという戦略を取りました。デパートの中でもメーシーズのような大衆的なデパートではなく、サックス・フィフス・アベニューのような高級デパートを中心に出店を行いました。高級デパートで売れば、高級なブランド・イメージ、そして高価格を維持できるからです。そのような戦略によってエスティローダー氏はブランドを育てていきました。
1950年代には、当時においては革新的であった、化粧品サンプルの無料配布キャンペーンを行いました。ニューヨークタイムズなどの媒体に来店でサンプルがもらえるという広告を大々的に出稿する手法は、のちに化粧品マーケティングの王道となりましたが、この時代には極めて斬新な取り組みで、市場に大きなインパクトを与えました。
このチャプターの冒頭に、1980年代に発売した「ビューティフル」という名前のフレグランスの話があります。日本ではバブルの頃にあたりますが、当時はカルバン・クラインの「オブセッション」などのセクシュアルなイメージのフレグランスがよく売れている時代でした。それに対し、エスティローダーはターゲットに対して「エレガントな成功者」像を提案、セックスアピールのみにとどまらない、上品で華やかな香りの「ビューティフル」を発売しました。これは非常に人気を集め、のちに同じ「ビューティフル」の名前を冠したトイレタリー商品などの関連商品も発売することとなり、さらに売上を拡大していきました。
このようなほかの化粧品会社とは少し違った目線での製品戦略やマーケティング戦略も、エスティローダーの成功の理由の1つであったのではないかと思います。(※図3)
小さなコーヒー店に将来性を見出したスターバックス"中興の祖"
第6章のハワード・シュルツ氏は、これまでの2人とは違ってブランドの創業者ではありませんが、スターバックスの"中興の祖"とも言うべき人物です。彼はもともとは店舗用品を扱うスウェーデンの会社のアメリカにおける営業部長でした。ニューヨークを本拠地に仕事をしている中で、西海岸・シアトルにあるスターバックスという名前のコーヒー店と出会うのです。
1970~1980年代のアメリカではコーヒーに対する関心は薄く、インスタントコーヒーや、スーパーで売られている大容量の缶入りコーヒーを家で飲むことが一般的でした。おいしい出し方へのこだわりもなく、ましてやエスプレッソなどは誰も飲まないような代物でした。それに対してシュルツ氏が出会ったシアトルのコーヒー業者は、とにかくおいしいコーヒーを飲ませるということに熱心な人たちだったのです。この頃、アメリカ各地でいわゆるスペシャルティコーヒーの店舗が勃興してきていました。私が1980年代の初頭に留学していたイリノイ州でも、店構えはボロボロだけれどコーヒーの味は一級品という、ヒッピー風の人が経営しているお店を実際に見たことがあります。
注文を受け、実際にシアトルに赴いたシュルツ氏は、スターバックスのコーヒーの味や香り、店員の知識の豊富さなどに非常に衝撃を受けました。そして彼らのやり方に共鳴したシュルツ氏は、スウェーデンの会社をすぐに辞め、スターバックスにジョインすることになるのです。
同じ頃に、シュルツ氏にとってもう1つ革命的な出来事がありました。彼が1983年にイタリアのミラノを訪れた際に、ミラノではどのお店にも"バリスタ"というコーヒーのプロフェッショナルがいること、そしてコーヒーが人々の生活の一部をなしているということにいたく感動したのです。帰国後、彼はスターバックスの創業者たちに対し、「ミラノのようなコーヒー店をやってみよう、このすばらしいスペシャルティコーヒーをアメリカでも広げていこう」と提案をするのですが、その提案は拒絶されてしまいました。しかしどうしてもそのアイデアを実現させたかったシュルツ氏は、スターバックスを離れ、別のスペシャルティコーヒーを立ち上げるのです。
彼が独立してオープンさせた「イル・ジョルナーレ」は、エスプレッソを中心とした商品設定で、メニューがイタリア語で書かれていたり、BGMにオペラが流れていたりと、強くイタリアを意識したお店でした。しかしそのスタイルがあまりうまくいかなかったため、アメリカ人になじみやすいお店へと少しずつチューニングを行いました。その結果、イル・ジョルナーレはたちまち人気店となり、2号店、3号店をオープンさせていきました。そしてさらなる事業拡大のため、なんとシュルツ氏は古巣のスターバックスを名前ごと買収し、自分のお店にしてしまったのです。
シュルツ氏の経営のもと、新生スターバックスは非常に早いスピードで出店を行いました。私が2003~2004年頃にニューヨークを訪れた際にも、街を歩けば1ブロックごとにスターバックスがあるというような状況で、ものすごい勢いで店舗がオープンしていました。このスピード拡大には、スタッフの教育が追いつかないなどの弊害もありましたが、細かい研修プログラムの設定や人的資源への投資を戦略的に行うことで、ブランドの維持を図りながら、事業を成長させていきました。
スターバックスのおもしろい点として、お店自体がとても凝った作りであるということがあります。もちろん街中にある店舗もおしゃれな作りをしていますが、たとえば京都には、一見普通の木造の家のように見えるものの、よく見るとスターバックスの模様が刻んである町屋風の店舗があります。また、函館には旧倉庫をリノベーションした店舗があります。これは海外でも同様で、たとえばサンフランシスコにも、住宅街に普通の民家のようなスターバックスがあります。このように、コーヒーを飲む環境にこだわるということも、スターバックスのブランディングにとっては非常に重要なアクションでした。(※図4)
この章の冒頭に日本のスターバックス1号店の話があります。私が当時取材したところによると、1996年に銀座にオープンした日本1号店では、オープン当日の朝まで、店内でタバコを吸っていいかどうかについて議論していたそうなのです。当時はまだ喫茶店でタバコを吸う人が多く、世の中的にも喫煙OKでもよいのではないかという雰囲気もありましたが、いろいろと議論を重ねながら、結果的には禁煙というルールを自分たちで決めていったということなのです。
一度はCEOを辞め、また復帰するなど紆余曲折はありながらも、シュルツ氏はスターバックスという不朽のブランドを作り上げ、アメリカから世界中へ新しいカルチャーを広めたという、飲食業界において非常に画期的な成果を残した人物であることには間違いありません。